夏ですね。いや。真夏です。
ここ京都。今年は五山の送り火がいつも通りでなかったり、祇園祭に続き少し寂しい夏模様です。
お盆期間にかけて35度越えの日が続くようで(先週は最高気温が38度の日があったり)もう灼熱が過ぎる、比喩ではなく本当に溶けてしまうのではないかと、そんな暑さです。
うちの小学生たちは夏休み真っ只中。
大人になると長い夏休みはないけれど、今日は村上春樹さんの「走ることについて語るときに僕の語ること」で、読書感想文的なnoteを書いてみようと思います。
ボクなりの夏休みの課題。
村上さんの本で他にもっと好きな作品もあるし、今この本なのかというところはさて置きまして、このnoteで紹介するに相応しい本。です。
村上さんが本書で書かれている”走ること”というのは長距離走のことです。
それはマラソンだったり、トライアスロンだったりのこと。
職業小説家として、ランナーとしての彼のスタンスだったり考えだったりが書かれています。
ボクは学生の頃の自分を思い返しながら、この本を読んでいました。
特段運動神経が良くないボクは、フォーメーションや試合の流れみたいなことを俯瞰できるスポーツ、サッカーなんかは人より秀でていた気がします。
めちゃくちゃ上手いってことはないんですが”ここにいたらボクが活きるだろうな”というような場所を見つけるのが得意で、シュートやドリブルが下手でも位置取りとパスだけで活躍できる、要は自分の能力を見極めつつチームでの役割を見つけることができれば何とかなるスポーツは活躍できる、そんな感じでした。
ボクがもっと得意だったのは長距離走。
陸上部でもないので村上さんの書かれている世界には全く持って及ばないんだけれど、長距離走にはいろんな要素が詰まっていてすごく楽しかったなぁって記憶が蘇りました。
いま振り返って言語化してみると、こんなことに楽しさを感じていた気がします。
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①自分の能力に合わせた、自分の決めた目標に対する達成感
②コース全体の流れと距離を俯瞰した戦略性
③自分の疲労度に合わせて呼吸や走りのリズムを変える面白さ
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瞬発的な競争だと心の準備が追いつかなかったり間に合わないようなボクでも、長距離走だと気持ちを整えながら競技を進行できたり挽回ができる利点がある、そして”周りとの戦いというよりは自分との戦いである“というところが、ボクの性格に向いていた。というわけです。
ボクの出身高校は毎年16kmのマラソン大会があって、往路がかなりの下り坂で復路がその逆の上り坂ってコースでした。
高校生くらいって、みんな下り坂でかっ飛ばすんですが、まあ膝への負担が激しいわけです。
ボクは往路の下り坂では平地とペースを変えず走って、復路も平地のペースなんだけどごぼう抜きできる。
学校のマラソン大会程度の話なので、戦略と呼べるほどでもないかもしれませんが、ボクとしてはそういう戦略性や駆け引きが面白かった。
そして何より”周りとの戦いというよりは自分との戦いである“というところに一番楽しさを感じていました。
自分の呼吸や歩幅や腕の振りなんかを確認しながら、一歩一歩と足は運んでいく、その先にゴールや結果がある。
もちろん周りと比べることもするんだけど。
(ちなみにボクは高校はテニス部に所属していて、とにかく走り込みをたくさんやっていました。
テニスは面白かったし、今でも大好きだけど、その部活でやった走り込みのおかげで長距離走が得意になった、という感じでした。)
村上さんの本の内容は、ひたすらと彼の”走ることを続けること“について書かれていて、走ることを起点とした彼の周辺のこと(走ることに対してという意味で)が書かれています。
ボクが語ることなんておこがましいけれど、村上さんがあのクオリティで小説を書き続けている地力みたいなことをひしひしと感じました。
ボクは”走ることを続けること“を、何か自分の打ち込んでいることに置き換えて読んでいました。
村上さんは本書の中で、”走ることを続けること“を”小説を書き続けること“に照らし合わせていたりもして、ボクはそれを自分の”経営をし続けること”に置き換えて読んだりもしました。
本の中にはとても素敵な言葉がたくさんあります。
ぜひ読んで欲しい。
中でもボクがドックイヤをつけるしかなかった箇所がこの言葉たち。
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毎日走り続けていると言うと、そのことに感心してくれる人がいる。
「ずいぶん意思が強いんですね」とときどき言われる。
ほめてもらえればもちろん嬉しい。
けなされるよりはずっといい。
しかし思うのだけれど、意思が強ければなんでもできてしまう、というものではないはずだ。
世の中はそれほど単純にはできていない。というか正直なところ、日々走り続けることと、意思の強弱とのあいだには、相関関係はそれほどないんじゃないかという気さえする。
僕がこうして二十年以上走り続けていられるのは、結局は走ることが性に合っていたからだろう。
少なくとも「それほど苦痛ではなかった」からだ。人間というのは、好きなことは自然に続けられるし、好きではないことは続けらないようにできている。
そこには意志みたいなものも、少しくらいは関係しているだろう。
しかしどんなに意志が強い人でも、どんなに負けず嫌いな人でも、意に染まないことを長く続けることはできない。
またたとえできたとしても、かえって身体によくないはずだ。
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ボクがこのnoteで言語化してきた、「パフォーマンス・能力の発揮に関するある理論」のことに通づる言葉たちです。
ボクのその理論は
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A:概論「能力の発揮の総和アップ」のための
B:実践編 → 日々弛まぬ努力すること、ルーティーンと習慣をつくること
C:精神性編 → 明日の自分に期待しない、信じ過ぎないこと。(つまり今を生きる、この一瞬を大切にすること。)
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A:概論が「ドラゴンボールの孫悟空が与えてくれた”能力の発揮”についての気づき」、B:実践編が「“天は自ら習慣とルーティーンをつくり・そだてる者を助く”というおしえ」、C:精神性編が「“明日の自分に期待しない、信じ過ぎない。”考え方のすすめ」というように書かせていただいています。
村上さんが書かれている“日々走り続けることと、意思の強弱とのあいだには、相関関係はそれほどないんじゃないかという気さえする。
僕がこうして二十年以上走り続けていられるのは、結局は走ることが性に合っていたからだろう。少なくとも「それほど苦痛ではなかった」からだ。”という箇所は、ボクの唱える“パフォーマンス・能力の発揮に関するある理論”のコアの一部に添えたい言葉たち。
“少なくとも「それほど苦痛ではなかった」から”続けることができるわけですが、少なくともボクには文中の村上さんに意思の弱さは感じなかったわけで、それは彼なりの謙遜と受け取りつつ、彼は”走ること“を小説を書くということと同じく、生活のルーティーンに組み込むことを努力しているようにしか見えませんでした。
つまり”走ること“はもちろん走り出したら全力で取り組むんだけど、”走ることを続けること”をどう全力で取り組んでいくか、ということを努力している人なんだと思うんです。
ボクは村上さんの作品がとても好きです。
専門的なことを語る言葉は持ち合わせていないのですが、彼の描き出す反復性とか習慣性とかループ感みたいな心地よさ、それらから生まれる情景たち、それは彼の生活や習慣やルーティーンから生まれるものなんだと、改めて腑に落ちたわけです。
(noteでの記事はこちらから)
“走ることについて語るときに僕の語ること”で“続けることについて語るときに僕の語ること”
2020.08.10.